略縁起・由来について
立江寺 略縁起
当山は人皇45代聖武天皇の勅願寺という格式をもった名刹であり、天平19年(西暦747年)に行基菩薩が光明皇后のご安産の念持仏として勅命により閻浮壇金の1寸8分の本尊「延命地蔵尊」-世にこれを子安の地蔵尊と称し奉る-をお作りになり伽藍を建立開基されました。伽藍建立の地を卜するにあたり、一羽の自鷺が何処ともなく飛んできまして九ツ橋(現在の自鷺橋)の上に止まり、行基菩薩に仏天の暗示として霊城を示したと伝えられています。
以来この橋に白鷺が止まっているときに橋を渡ると、仏罰を受けるといわれています。
弘仁6年(西暦815年)に弘法大師が四国八十八ケ所霊場をご開創になられます時に、当山にご留錫なされ、行基菩薩のお作りになりました1寸8分の小像では後世になって紛失してしまうおそれがあるとお考えになり、御自ら一刀三礼をなしまして6尺に余る大像を刻まれ、かの小像をその御胸に秘収安置されまして当山を「立江寺」と号し、第19番の霊場とされました。この当時の当山は、現在地より西へ400mはなれた現在の奥の院のあるところに、境内地三町四方を有する巨刹であったと伝えられています。
天正年間に四国制覇をめざした長曽我部氏の兵火にあい、ご本尊を残して灰燼に帰しましたが、阿波藩主蜂須賀家初代蓬庵公のご帰信が篤く、藩命によりまして現在の地に移転再興されました。
当山は「子安の地蔵尊」あるいは「立江の地蔵さん」との俗称で古くより霊験のあらたかなことで知られ、西国巡礼御詠歌集に高野山、善光寺などとならんで取り上げられている程に全国の善男善女の信仰の篤い名刺です。
また「四国の総関所」として四国八十八ケ所の根本道場としても有名であります。
昭和49年10月28日未明の祝融の災により、本堂他諸堂を焼失しましたが、奇蹟的に焼失をまぬがれましたご本尊のご威光と有縁の方々の浄業により昭和52年12月に復興事業が完成し、旧にましてすこぶる壮厳な昭和を代表する名寺院建築という評価を得た見事な聖堂に生まれかわり、わけても内陣の絵天井の豪華絢爛さは比類ないものとして有名であります。
肉付鐘の緒の由来
~四国の総関所と呼ばれる由縁について~
石州浜田(現在の島根県浜田市)城下通町3丁目桜井屋銀兵衛にお京という娘あり、16歳の時大阪新町へ芸妓に売られ勤めるうち、要助という者と契りそめ、22歳の時大阪を脱走し生国浜田へ立ち帰り親に頼みて要助と夫婦になりしが、お京心様最も悪しく馴れるにつれ我儘増長し、鍛冶屋長蔵という密夫をつくり、之れを夫要助に嗅ぎ付けられ、二人とも散々に打ち擲されければ、邪見のお京は長蔵を手引きして、夫要助を打ち殺し、讃岐丸亀(現在の香川県丸亀市)へ渡り自害せんとするも気おくれし、後生のため四国巡拝をなさんものと当山まで来たり。地蔵尊を伏し拝まんとするや忽ちお京の黒髪逆立ち鐘の緒に巻きあげられ苦痛の体に長蔵狼狽し、院主へ救いを請いければ、院主は罪の次第を問いただし、お京懺悔すれば、不思議にも、お京の黒髪もろともに肉はぎて鐘の緒に残り辛じて命はたすかりける。
生国にて自害の時おくれ、当山まで来りて大罪をこうむるは天の然らしむところと両人改悛の心を起し発心出家して、当村田中山(当山より北へ500メートル・現在のお京塚)というところに庵をむすび一心に地蔵尊を念じ生涯を終われり、肉付鐘の緒を当山の堂に納め置くは享和3年(西暦1803年)の春のことなり。